飛鳥山と渋沢栄一翁

「実業之日本」を通じて、実業家として活動する中で、講演や寄稿など自身の意見を広く社会に
発信してきました。明治30年(1897)6月に創刊された雑誌で他誌とともに近代日本を代表
する経済雑誌の一つ、それらの事を紹介している「渋沢資料館」に、土曜の午後行って見た

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渋沢栄一の存在は、深谷駅前に立っている銅像や、その地域に生家があること 日本の経済界の
生みの親である事、その程度の理解だったが、あらためてその偉大さを知ることになった

それらの資料館が「飛鳥山」に存在している事すらしらなかった・・・

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青淵文庫 かなり整備されていたが残念ながら書物の大半は関東大震災で焼失されたとか・・・
本来であれば、「論語」のコレクションや『徳川慶喜公伝』の引用文献が収められる予定だったとか

「晩香虜」は、外国公人などを招待し、政治・経済・文化・教育などについて語り合ったそうです

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いずれにしても、飛鳥山の一部?明治12年から別荘として、明治34年から本邸として利用した邸宅
「曖依村荘」と呼ばれる邸宅は8470坪の敷地 残念ながら多くの建物は、昭和20年の空襲で焼失、 幸いにも元の姿を留めている建物がある・・・その一部を見る事が出来ました

帰りがけに出会った「D51や都電 子供達の遊ぶ声」ほっとする瞬間 近代的な町も・・・

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今、国を二分するような議論が活発に行われている「関税撤廃は、国益にどう影響するのか?」

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所謂「TPP」問題、
日本を開いてきた渋沢栄一翁がその事を聞いていたら・・
「中国との付き合い方を・・・」「アメリカとの距離を・・・」
日本の閉塞感を打破するために知恵を出した渋沢栄一
「黒船襲来」に意を感じて開国に舵を・・・
そして、世界に目を向けた渋沢栄一翁
「尊皇攘夷」に燃え、暴挙を企てるが・・・
一ツ橋慶喜に仕え、徳川昭武に随行しパリ万博へ
そこで得た知識を活かし、日本の改革に・・・
江戸・明治~大正 近代国家の礎を築いた渋沢栄一               

その資料館を、この時期に見学できたのは・・・

何らかの知恵を、私に授けようとしている「お天道様」の計らいかも・・・

渋沢栄一を育んだ者
深谷市の血洗島の農家に生まれ、家業の畑作、藍玉の製造・販売、養蚕を手伝う一方、
幼い頃から父に学問の手解きを受け、従兄弟の尾高惇忠から本格的に「論語」を学んだ
それらの影響を受け、日本の実業界に「論語や道徳」を注入しようとしたと記されていた。