あれから62年・卒業後の新しい生活・・・

2022年1月6日

昭和40年2月に創業した廣澤梱包興行有限会社(現 株式会社P&Dヒロサワ)創業者は私の実兄です。

私は、昭和35年4月に茨城から上京、国際電気株式会社に入社、通信機メーカーとしてはそれなりの企業であり、胸躍らせて入社しましたが、時代は政治闘争の真っただ中「安保反対・・」を唱えシュプレヒコール~「岸内閣打倒」と毎晩~国会周辺にという時代でした。

意味も分からず「ジグザグ行進・・・」に明け暮れた1960年、15歳から20歳までを過ごした青春時代? 他方~新宿歌舞伎町に入り浸り「ジャズ喫茶通い」中尾ミエちゃんが3人娘としてデビューした頃、新宿アシベやラセーヌに通い詰めていた頃が懐かしい。

宿命的な出会い~そして起業

そんな折に出会った実兄の正男氏、廣澤家5人兄弟の次男坊ですが、国鉄に入社後「数年で退職~起業」印刷物・図書雑誌を取り扱う梱包事業を始めるという破廉恥な行動に父親も唖然?

そんな折に、たまたま挨拶に行った事がきっかけで、新規事業の手伝いをする事になった。

いわゆる「宿命的な出会い」以来~おかげさまで昭和の時代を謳歌し、政府が打ち出す諸々の施策によって、梱包&発送事業も急成長に拍車がかかり「拡大政策に奔走」大きな成果を収める事が出来ました。「有限会社」でスタートした廣澤梱包興行も、10年後には株式会社に~社員数も50人を有し、業界に名を轟かせるまでに成長、創業20周年には小豆沢の工場を閉鎖し、現本社である浮間に進出、本社社屋を取得、大きな飛躍を遂げさせて頂きました。

成長の陰に、恵まれたお得意先様

振り返って見れば、創業期に培ったお得意様との信頼関係~総理府を軸に通産省・文部省・中小企業庁など~そして人脈を通じて多くの外郭団体へとお得意先を広げて行く事になりました。

弊社にとって、創業期から「最大の顧客」としてターゲットにしてきたG社様を獲得した事は、長年の夢でありロマンでもありました。昭和40年2月~中野弥生町~創業~昭和45年4月~幡ヶ谷へ移転~昭和47年4月~小茂根へと業務拡大出来た大きな要因にもなりました。事の仔細については割愛しますが、国鉄の法規類集が大きな縁になった事、そして現行日本法規を受注した事は、記しておきたいと思います。

それ以後の営業活動は順風満帆~飛ぶ鳥を落とすような勢いを感じる日々でした。小茂根時代は、G社をはじめとした大手民間企業との取引など、その後の生成発展の大きな起源となりました。

権限の委譲と組織的運営

企業として、昭和50年~さらに成長するために行った「権限の委譲と組織的運営」その行動規範は、現在の組織のありようについての原点となり、私の役割は専務取締役~若干32歳で拝命した「鬼の専務・仏の社長」創業社長の激励に応えるための活躍は、今でも脳裏から離れる事はありません。今では想像もつかないような強い指揮を執らせて頂いた時期でもありました。

そこに至るまでには、私自身の迷いを払拭し覚悟を決定づけるブラジルへの逃避行があった事も記憶に新しい事実として記しておきます・・・業務繁忙の当時のエピソードですが、仕事が終わって銭湯に行く時間は、決まって午後11時58分~自宅に帰って床に就くのは午前様、結婚して三人目の子宝に恵まれる頃、創業社長への不満から「退職して起業する事を決意」時を同じくして発生した家内の兄貴への対応、それは「青天の霹靂」だったかも?

義父から「息子の様子が知りたい」

ブラジルに移民している「息子の様子が知りたい」との義父の思いを叶えるために、ブラジルに向かう。きっかけは義兄がブラジルでお世話になった片山家の長男が「国費で来日」した事だった。

初めて羽田飛行場で片山君と出会う事になった。そして、日本でかれこれ一年、「農業技師」として学びの時を過ごした片山君、いよいよブラジルに帰る事になった。あらためて羽田飛行場まで送り届けた。その後、義父から「片山君を頼りに、ブラジルに行ってきて欲しい」そこにはそれなりの理由があったが、私にとっては「渡りに船」であった事も間違いない事実です。

「ブラジルから帰ったら、起業する」そんな思いを持って羽田を飛び立ったのは昭和52年6月12日でした。「サンパウロでの10日間」は、私の人生を根本から変える大きな出来事になった。

母から教わった、私の役割について

昭和52年6月7日 三番目の息子が生まれて一週間が経った頃、私は羽田からサンパウロへ・・・向かう事になった。今でこそ直行便が・・・当時はアンカレッジ経由~ニューヨーク~○○飛行場~サンパウロへ 24時間かけて片山家に辿り着いた。早速~片山家の家族や現在の義兄の様子を伺いながら、お母さんは「只者ではない」ことを認識することになった。

長男は農業技師・長女は三菱銀行勤務・次男坊は電気屋に勤務 そして末っ子(10歳)の娘さんは「将来スチュワーデスに・・」そんな大きな夢を語ってくれた、お母さんの子育てに感服、素晴らしい構想力に魅了されました。

「お母さん 農作業はだれが?」「パート・アルバイトだね・・・」私は目から鱗って感じでした。お母さんが生産を管理し、お父さんは営業に専念する、その構図にわが意を得る事になりました。

「うるせえ!黙って俺に任せろ~」

昭和52年6月以降~わが社の組織における、役割について「専務が生産管理を担当、そして社長は営業に専念する」という構図が出来上がったのだ。「ブラジルから帰ったら会社を辞める~俺がやらなきゃ誰がやる」私の人生が180度変わった瞬間でした。

そして究極のコメント「うるせえ! 黙って俺に任せろ~」社長に対する私の発言ですが、この発言のもとは「サンパウロで出会った片山家のお母さんのお陰です」私が目覚たのが31歳、そして専務を拝命したのが32歳、この一連の出来事がなければ、今日的な発展もなかったと思うし、後継の専務にすべてを託すというような発想も持たなかったと思います。

「お母さん ありがとう 感謝です。」私の生涯を通じて語り継いできたエピソードです。

「人生 いろいろ」これからも・・・

こんなことを、オーナーブログ「人生いろいろ」に記す機会を頂いた理由は、今年の二月に行われた株主総会で「代表取締役を辞任する」ことを言明、そして10月14日に発言した~「信頼して後継者に任せる」~年度末には、新社長と多くのお得意様にご挨拶に伺わせて頂きました。

他方、先日お会いしたG社の元社長Iさんとの懇談の中で~平成17年1月2日に伺い、財務改革についてご相談した際に 「・・・だから再生出来ないんだ 創業者を切れ!!」と厳しく叱責された一言が、弊社の再生のカギとなるコメントになりました。(仔細については割愛します)

私にとって、昭和35年3月上野合中学校を卒業して東京へ、国際電気で5年~そして廣澤梱包興行有限会社に入社、あれから62年が経過しましたが、これからが本当の人生ではないかと・・・楽しみです。

「健康第一・一家和楽・ありがとう 感謝」自然体で人生を楽しんで行きます!!

無題

Posted by 廣澤三夫